Text by Satoru Yamada after attending my solo exhibition ‘Copper Landscapes’ and subsequent visit to my studio during my residency at the Casa de Velázquez in Madrid. Spain. 2021
今年21年2月のプクサギャラリーの個展でとても日本的な作品を見つけた。金縁の大きなトルコ石のような緑の円が描かれている。輝きのない重たい緑の作品はまるで汚れのある使い古された家の壁を見ているようで、だがそれでいて何かをこちらに訴えかけてくるものがあった。だがそれは偶然にも詫び、寂と言った古く時間の経ったものに人生を見出す日本の新美学にもぴったりハマっている。
アーティストはシルビア・レリン。1988年バレンシアのポリテクニカ大学美術学部を卒業した画家としてアーティスト人生を始めたが、今では大壁画や写真にインスタレーションも手がける。今年いっぱいマドリッド のカサ・ヴェラスケスに奨学金をとって滞在していることを利用して、彼女に会いに行った。年季の入ったものの荘厳さを愛する日本的なものがある、という話をすると彼女も
「
時の経ったものは得てして詩的よね。」
と答えた。
画廊の展覧会ではカンヴァスや木材、それに紙の上に絵を描いたものがあり、一方でCollagraghという版画作品もある。すべての作品が酸化した銅か青銅の板の感覚を思い起こさせる。だが彼女はちょっといたずらっけがあるらしい。というのはコラージュや立体の作品で実際に銅を使ったものを展示している。
彼女は2005年ヴァレンシアの画廊La Naveで個展をして以来、今まで数々の個展を開いてきた。例えば2009年アステュリアスのアヴィレスにあるCMAE文化センターで、2011年にはベルリンの画廊Sophien-Edition、2015年にはヒローナのコレラにある画廊Horizon galleryで“Mind The Gap”展、2016年にはロンドンのExhibitions space at Idea Storeでの“IVY”展、最終的にマドリッド のPuxaGalleryでの“Copper Landscapes”展を開催に漕ぎ着けたのである。もうすでに国境を超えて活躍している。実際彼女はバレンシアとロンドンにアトリエを持っている。
彼女はすでに多くの賞を手にしたきたアーティストでもある。1999年第1回カステジョンのマノロ・ヴァルデスコンクール、第II回ヴァレンシアのマイネル・ファンデーションコンクール、やはりカステジョンの絵画ナショナル・コンクールで立て続けに一等を獲得した後、コンスタントに多くの賞で輝かしい実績を残している。例えば2002年にはエルでの第1回ウエステス・デル・カディ・ミニ絵画コンクールで一等、2005年にはヴィラ・デ・ペゴで行われた第29回絵画ナショナル・コンクールで一等をとり、2007年にはアルテ・ノ・モラッソ・デル・コンセジョ・デ・カンガスで一等を取るなど合計5つの賞を取り、2011年には第7回ヴァレンシアのサン・カルロス・美術レアル・アカデミーを取るなど活躍中だ。彼女の賞や奨学金を語り出すとスペースが足りなくなるので、この記事ではこれくらいにしておく。
彼女の展覧会では面白いものがたくさん見る頃ができるが、この批評記事ではシルビアの壁作品に話を集中しよう。彼女は9歳の時にはすでに画家を目指す決意をしていたという。でも小さい時には彼女は風景や静物画を描いていた。それがいつしか気がつくと幾何学の中に抽象画を描くようになっていた。(でもこれはやはり風景画?)
「そう、私にはそう。」
「幾何学」という言葉は我々に数学的コンセプトを思い起こさせる。だが彼女の幾何学はとても私的で、オルガニックだ。多分、彼女の大きな壁の円は望遠鏡のレンズを思い起こさせる。そのレンズを通して我々は自然の一部を観察しているのだ。おそらくそれで彼女の縁がオルガニックに見えるのだろう。ところで我々は「風景」という言葉を使ったが、彼女の壁作品は自然の意本質としてのフラクタル現象の風景を見せている。私は彼女のことを抽象的風景画ではなく、自然の画家と呼びたい。何も彼女は見たことのある特定の風景を扱っているのでは無いのだ。
私に取ってアートする上でとても大切なことは「二項対立」なの。でも文字通りの二つの対立概念ではなくて、あるものがあったら、自然と現れてくる必要性から来る対立概念なの。」
間違いなく彼女の作品には様々な対立概念が見られる。紙と銅という金属の触感、偽物と本物、古いものと新しいもの、そのほか様々な対立概念がある。だが全く対立していない。お互いに作品の中で呼応しあって作品を安定させている。
彼女はスペイン生まれのアジア人のようなものだ。道教では、宇宙は二項対立でなっている。男と女、光と影、右と左、そのた多くの二項対立、最終的には生と死、その何れも欠くことができないものだ。落ち着いた世界はすべて二項対立がうまく均衡を作り出すために機能しなければならない。均衡、それがすべての鍵だ。
思わず、シルビアの「酸化した銅の壁」作品の持っている均衡は西洋人よりもアジア人にわかりやすいのでは無いかというふうに考えたが、彼女の賞歴を見れば、明らかに西洋人も彼女のアートを高く評価していることがわかる。レオナルでも汚い壁を通して、大自然の本質を見ていたのでは無いだろうか
いろいろ興味深い作品があるが、壁づくりに集中しよう。もともと9歳の頃から画家になりたかったのだそうで、もちろん子供の頃は典型的な風景画や静物画な度を描いていたが、気がつくと抽象表現の中に自己表現を求めるようになっていた。いつの間にか幾何学を重視してその中に見ているものを凝縮するようになった。
「(これは景色を幾何学の中に自分なりに)凝縮したものよ。」
幾何学という言葉からどうしても最初は数学的なものを思う意浮かべるが、彼女のつくりだす作品のオルガニックな手触り感がとてもそれを自然なものにしている。数学的なものであるはずの幾何学が詩的に見える。
もう一つ彼女の作品を見る上で大事なことは、
「私にとってアートに大事なものがもう一つ、それはいつも二項対立があるということ。だけど対立は文字通り対立するのではなく、一つがあるともう一つがなければならないバランスの必要性から来るものよ。」
彼女の中ではいつも二つ対立するものが融合して何か新しいものを作り出している。紙と銅、内面と外面、新しいことで一見古いものを纏め上げる。
まるで彼女は西洋に生まれた東洋人だ。中国では道教の画家は風景画を見た目の風景に美しさに惹かれて絵を描くことをせず、いつも絵の中に自分なりの道への同化を描いた。世界は人類が作り上げた物ではなく、それ以前から宇宙の絶対心理、「道」への理解を示す目的があった。その道は、世界は二項対立でできているととく。だがその二つは対立する物ではなく、バランスの問題なのだ。影と光、男と女、動と静、右と左、どちらか一方が欠けても世界は成り立たない。その世界のバランスこそが宇宙の法則であり、人間が感じていきければならない物だ。
彼女の銅の壁作品はなんとなくオリエンタルな人間の方が理解しやすい作品であるような気がしたが、彼女の輝やかしい賞歴を見れば当然彼女が西洋人の間でも高い評価を得ていることには間違いない。
山田 哲
スペイン美術評論家協会、国際美術評論家協会